未完のみかん

みかんの成長日記

ルッキズムとわたし

んにちは、みかんです🍊

今回はルッキズムについて、私の考えを整理してみようと思います。

 

ルッキズムとは

ルッキズム【lookism】(デジタル大辞泉

外見的な美醜を重視して人を評価する考え方。容姿による差別をいう。

 

息苦しさの原因

可愛い子に対しては何となく周囲の態度も違って見えて、やせないといけないように感じて、、、(それがルッキズムだという認識の有無に関わらず)社会にはルッキズムが溢れているように思います。この息苦しさの原因は何処でしょうか。

 

「美」は万能のものさしではない

1点目は、「美」という価値が関連しない事柄であっても、美醜で人を判断する点です。「美」は、「身体能力」、「情報処理能力」、「記憶力」等、様々な価値基準の一つです。ですが、「美」はなぜかどんな場面・人であっても無差別に、また無遠慮に突きつけられるものさしとなっています。その構造がまさにルッキズムであり、問題の根本なのだと思います。

 

そもそも「美」とは?

2点目は、押し付けられる「美」の形が恣意的であることです。1点目とも関連しますが、あらゆる場面で見た目を判断基準とする中で「美」は過大解釈され、内面と外面を関連付けるバイアスが膨らんでいきます。その結果、社会の押し付ける美しさは普遍的な「美」ではなく、声の大きい人にとっての「(バイアスを大いに含んだ)好み、都合のよさ」となります。それを追求することは、相手にとって居心地の良い存在であることを優先することと同義と思います。

 

つまり、必ずしも自分の意にそぐわないような外見(社会にとっての「美」)を、どんな時も当然のように求められることが問題の原因といえそうですね。

 

ルッキズムとの付き合い方

ルッキズムについて考えはじめてから、すでに自分の中にルッキズムが内在化していて、社会を遮断しても自分の中の他者の価値観が自分をジャッジしているのでは、と感じるようになりました。そこから抜け出して、「美」という価値とどのように付き合っていくか、未だに答えが出せていないところでもあります。

ただ、私にとっての解決策は、(外見、内面を問わず)一から「なりたい自分」を考えることではないかと思っています。

先述のとおり「美」はあくまで一面的な観点ですから、外見が自分のすべての価値を左右するという考えは捨てて、まず最初により包括的な視点で自分が生きるうえでの目標を考えるべきでしょう。そのうえで、「なりたい自分」を表現する手段として、自分にとっての「美」が価値になりえます。

そして、「なりたい自分」は自分が愛せる自分でなければ、と思います。先述の言葉を借りるなら、誰でもなく自分にとって”都合の良い”自分でありたい、というところでしょうか。

 

自分が愛せる自分とは何か、結局この問いが非常に難しいですね。その答えが出せずとりあえず社会の軸にしたがうことが、ルッキズムの内在化につながっているような気もします。

そちらについても、もう少し私が成長したら記事として書いてみたいと思います。

それでは🕯🫧